蓮如上人が立ち寄り、自作の自画像を描いた寺
(日本に7体しかない蓮如上人の自作の自画像は、京都国立博物館に保管)
春光山浄光寺の寺歴によれば、越前吉崎坊舎、文明6年3月28日消失のため、蓮如上人は翌文明7年(1475年)8月21日吉崎を退去し、若狭小浜に着き、北桑田郡美山、福正寺に立ち寄り、それより、亀岡市吉川町浄光寺に着かれた。当時、このお寺は天台宗であったと言い伝えられている。蓮如上人はしばらく当寺に逗留され、周辺を伝道布教されて、その合間に南無阿弥陀仏の名号を2枚と、水面の自画像を刻み残され、摂津を経て、河内出口に至る。御年61歳、翌年文明8年、堺御坊(信証院)を建立される。建立される。
なお浄光寺での御自作の像は、全国に7体あるそのうちの1体と言われ、大変貴重な御像であるため大切に保管され、
それに代わる聖人像の彫刻を上島健治氏を通じて依頼され、京都国立博物館、京都府立図書館において、蓮如上人像を心に描き、私の拙い上人像を彫らせていただき、平成平成10年7月28日浄光寺の本堂において奉納者上島健治氏、寺総代曽我氏、浄光寺老僧、現住職等参列のもと、無事開眼法要が執り行われ、現在に至っています。
|